煩悩まみれ大学生のイタい脳内

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『カラマーゾフの兄弟を読んだ』--宗教観を育む

この物語は昔のロシアのある地主家族の話で「宗教を信じない次男(イヴァン)」と「将来は神父にでもなりそうなくらい敬虔なキリスト教徒である三男(アリョーシャ)」の対比がメインになっている。

イヴァンの主張

昨今、特に日本では大体の不思議なことが科学で証明できることから無宗教な人が多い。欧州サッカーを見ていると選手がよく天に祈りを捧げたり胸に十字架書いたりしているので、科学の発展した先進国でも未だに深く何かを信仰している人は多そうだけどね。

でもその次男の言い分は思っていたものと違った。次男は、神の存在自体は認めていると主張していた。その上でそれを信仰しない。つまり自分は無宗教であると。

理由はその神が創造した世界、つまりこの世とあの世の仕組みを許容できないからであった。

 

不完全なキリスト教

多分これは、仏教とか他の宗教だと少し話が違ってくるのだと思うが、なんかキリスト教には「罪を許せ」とかいう概念がある。さすれば自分もそいつもあの世で平和に暮らせるとか。次男は、その悪いことをした人もあの世で幸せになれるシステムを認めたくないと言っていた。

例えば、ある家族の子供が暴漢に殺されたとする。しかしキリスト教の概念ではその殺された子供の親も含め、暴漢を許してやらねばならない。なぜならその親や他の人間も、生きているうちに何かしらの罪を犯すから。その暴漢を許してやれないようでは、自分も天国で幸せになれないよと。

もしその仕組みが真実であったとしたら、その暴漢やこの世でなんだかんだ色んな罪を犯してきてしまった親たちは、あの世に来たら永遠に幸せに暮らしていくだろう。そしてそこには当然、何の罪も犯さずただ殺されてしまったかの子供もいる。その子供は果たして、暴漢や親や他の罪を許された悪い人たちをどんな目で見るだろうか。確かにあの世は平和である。しかしその子供の心は永遠に穏やかでないだろう。

その子供のような人はどこかに必ず存在する。だから自分は神が作った世界を認めず、無宗教なのだ。それが次男の主張だった。

 

無宗教者としてのエゴ

この主張を受けて三男も改宗(というよりも解宗?w)するかと思われたが、次男の主張はそれに止まらず、神によって裁かれないが故にこの世においては何をしても許される(当然罪を犯せば法廷裁判の対象にはなるが死んだ時に何かが起こるわけではない、という意味)、だから常識では許されないようなこと(物語中では次男父親に殺意を持っていた)も自分はできる、というのが次男の考えでありアリョーシャは同意しかねた。

物語中ではこの三男も結局教会を出てしまうのだが、普通の日本人ならこの話を読んで「キリスト教の仕組みはやっぱり変なので自分は信仰など絶対にしないだろうが例え方で裁かれないとしてもやっぱり殺人はためらうよね」という印象を持つのがほとんどだろう。きっとその感想はすごく適切で、それが本質なんだと俺は思う。

結局宗教も膨大な数の人間社会に一定秩序を保って統制しようと思ったら神話でも作ってそういうものなんだと教えてしまうのが昔は手っ取り早かった。それだけの話だと俺は思った。

 

他の本の知識を思い出してみる

Metapsという会社のCEOが書いた『未来を先回りする思考法』でもたしか言及されていたと思うのだが、人間社会はいつも新しいテクノロジーの伝搬によって変化し、そのテクノロジーが普及する条件はそれがその時の社会で必要とされていることである。

かつて狩猟生活を送っていた人類は地域によって差こそあれ順次より生存確率の高い農耕生活を取り入れてきた。次第に村のようなレベルの高い組織が生まれ、統率の必要性が高まっていく。キリスト教をはじめとして多くの宗教はそのニーズが高まったタイミングで発祥し、広まった。

大きな組織の秩序を保ちたいニーズと、簡単に人々を統率できるレベルの高いテクノロジー、二つの側面を強烈に持っていたのが宗教であり、それゆえ現代でも一部の人々の血肉となっている。似たような流れが『銃・病原菌・鉄』という本にも書かれている。

 

俺の結論

要は宗教も所詮、現代で言うインターネットとかスマホと同じなんだ。すごく便利だけど、今は科学とかしょーもねえ自己啓発とか色々あるから、組織の統率で宗教だけに頼る必要はない時代だということ。黒電話とかガラケーを使わなくなったのと同じように、宗教もいずれは使われなくなる時が来るし、今はその過渡期なんだろうね。

黒電話やガラケーがきっと昔は超便利だったけどそれでも連絡手段としてまだまだ足りない機能があって、だからこそスマホが生まれた。宗教も同じで、たまたま2000年前に史上最高レベルで流行ったひとつのテクノロジーにすぎなくて、不完全なところもあるんだよね。

だからかの次男のようにその不便さに気づいた人はそれを好かないし、時代や地域や人、それぞれが置かれた状況によってはそれを真理と称しても差し支えがないくらい宗教がフィットすることもある。

ゆえに俺自身は宗教を信じないし、そうであっても世界にはそれを信じている人がいることをごく当たり前のことであると受け入れるのが、最も理にかなっている。無論、神父だろうと預言者であろうと我々のような無宗教者の存在を受け入れる必要があると言えるだろう。

世界には例えばサウジアラビアのように無宗教者の入国を拒む国も存在するが、それも所詮ポジショントークだと俺は思う。国民を統率するために宗教という技術に重きを置いているが故に、そうするのが最適な状況に置かれているが故に、生まれる政策なんだろうね。

つまり結局大事なのは自分にとってそのときと未来とを見据えて何が、あるいは何をするのが最も効用が高いかだ。だから「人を許す」とか「豚を食わねえ」とか「子供の頭に手を乗っけねえ」とか「正月は神社に行って賽銭箱に小銭を入れる」とか「日本でクリスマスを祝う」とか、それを自分がやるかどうか、従うかどうかは自分が何教信じてるとか神がいるだいねえだは関係ないというか、本質的じゃないってことだ。

この見方で言えば、かの次男が自分が無宗教であることを理由に親殺し(物語中では代わりに召使いが実行)を正当化したことに我々が違和感を持ったのがやはり適当であり本質的であったことがわかるだろう。

 

自分で読んでみてほしい

宗教観ばかりを取り上げてしまったが、『カラマーゾフの兄弟』は他にも支配欲とか権利欲とか物欲、性欲などなど人間の様々な欲望とその衝突が満載の物語だ。ぜひ一読を勧めたいがテキストで読むとクッソ重たいし長いのでまずは漫画版で大筋を掴んでから読むといいだろう。

 

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

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カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

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カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

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未来に先回りする思考法

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文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)