煩悩まみれ大学生のイタい脳内

当ブログのコンテンツは煩悩にまみれていますことをご了承ください。

人に興味が無いので全員同じに見える

俺が書く記事はなんだか「何が良いも悪いもない」的な話題が多い。
なんでかなあと思ったらやっぱりこれだ。
俺は人に興味が無いせいで全員同じに見えて仕方がなく、同じなので平等に扱うのが妥当に思えてくるのだ。


多くの人たちが崇めているものが理解できないし、彼らの人生にも興味が無い。楽しく幸せそうにしていればいいんでねえのくらいには思ってるけど。
なんでそんなに興味が無いかというと、自分がクソッタレで社会不適合なので、「何でそんなこと考えてるの?」とか「何でそんなことしてるの?」とか干渉されることにウンザリしているというのが率直な回答になる。
自分がされて嫌なので他人にもしないという単純な変換だと思う。


んで、他人に興味が無いのでその他人が崇めている「能力」にも興味が無い。

まあ、それが何なのかとか持ってるとどうなるのかなあぐらいの好奇心はあるが、少なくとも他人が感じるであろう価値を理解できない。
だから「高所得」=「いっぱい働いてる」=「社会貢献度が高い」=「素敵な特殊能力(営業力とか文章力とか発想力とか運動能力とか美的センスとか)をお持ち」のように導ける個々人の能力に、圧倒的な価値を感じられない。

なんでそんなつまんないものに必死になってるんだろうという感想しかない。
ゆえにそういった能力を根拠にその人をある意味リスペクトするような感情にはならないのである。


かといって俺が他人をリスペクトしていないわけではない。むしろ全員をリスペクトしている。

そもそも人はその人自身であるという事実だけでリスペクト、尊敬、ありのままに存在を認めるに値する。

だから個々人の価値を考える際に、個々人の能力だとかそんな誤差みたいなものを考慮しようと思えないのだ。

誰しも、何も追加的に考慮せずとも尊敬に値するので、結果的に興味を抱く必要も無い。既にMAXなのだ。だから全員同じに見える。

 

まとめると
不干渉→無関心&元々全員尊敬→全員同じ
である。

"着想"人間に「○○から何を学びましたか?」は禁句

着想という強みは、一見何の関連も無さそうな物事から一発逆転のアイデアを貫通させる、というような形で明るみに出る。
だから就活でよく聞かれる「ではその経験からあなたは何を学びましたか?」という質問には、絶対に答えられない、とあえて言いたい。
着想人間は、ひとつの事柄からだけでは、何も得ないのである。


着想人間的な答えとしては、その人が今何を信条としているか、それしかない。
そしてそれは別にその面接で聞かれたから無理矢理話さざるを得なかったであろう経験のみから得られる示唆ではないのである。
ゆえにそういった質問は採用面接において万能ではないと言えるだろう。


自分がたまたま着想人間なのでその視点から物を言ってしまうが、ひょっとしたら人の特性ごとに質問内容変えたほうがいいんじゃないだろうか。
効率性とか、公平性とか、色々あるだろうけど、そういうものこそ我々着想人間はめっぽう苦手で馴染めない。


てことでやはり技能を見せたりとか、カフェでまったり話しこんで人柄を見るとかがいいんだろうけど、そういうのは新卒採用ではやりにくいよなあ。
着想の強みを22歳までに活かす機会は、たしかにビジコンとかあるけれども、分析の強みを持つ人が近くにいないとこれまた全然活躍できない笑
つくづく日本社会では呪われた強みなんだなあと思う。


まあ、採用面接では、どんな状況だったらあなたの力を最大限発揮できるのか、を聞きだす目的で先ほどのような質問がなされるので、着想人間的な応答としては「経験とかなんだか知らないっすけど、とりあえず見せられるものを全て見せてください、面白そうなやつやります、んで僕の行動がお金になるよう面倒を見る係をつけてください。」みたいな感じだろうか。

文章化してみると改めてクソッタレな強みだなと思うが、こういう特性であるのもまた"真"である。

白人による人種差別の変なところひとつ見つけた

彼ら白人による人種差別は主として肌の色なわけだけど、そもそもどうして黒人はあんなにも迫害されてしまったのか。


たぶん単に「自分と違う」ということ以外に、黒人たちは白人たちよりも野性的であったのが、人々の心情の中で迫害を支持する根拠になったのではないだろうか。
野性的、つまり動物っぽいということは、頭脳的な能力よりも身体的な能力に頼って暮らしているということ。たしかに黒人の方は運動能力の高い人が多い。


一方で白人による人種差別は、我々黄色人種も対象になっている。
しかし、我々黄色人種は野性的だったのだろうか?


昔の大英帝国など白人と清など黄色人種との関わりの場面がある映画などでは、明らかに我々黄色人種の貧弱な身体能力を揶揄していた演出がなされている。
つまり白人は、高い身体能力を持つ黒人を野性的であると差別し、一方で身体能力が低い黄色人種を弱っちいとして差別したのである。


うん、完全にブーメランである。ダブルで。

現代の人種差別主義者ってどんな理由で差別してるんだろう。未だに同じような理由なのかな…

店員なんて全員お面つけて対応すりゃいいじゃん

「人が好き」とか「人と話すのが好き」だと言う人達には理解できない話を今からする。
俺は人と話すのが好きではない。
だから人が対応しているあらゆることは全部ロボットになればいいのにと常々思っている。
しかし日本は時給が低いしそれでも働きたがる人がいるので、なかなか機械化が進まない。
まあこれもベーシックインカムを導入すれば一瞬で解決されそうな話なのだが、安価な対応として店員がお面をつけて対応すれば済むんじゃないかという話である。

 

俺は「おもてなし」が理解できない。
あんなのは外国人観光客向けのパフォーマンスでしかないと思っている。
店員なんて全員無言で対応してくれないだろうか。
どうして客に話しかける必要があるのか。
無人レジならぬ無言レジは何故存在しないのか。あったらPontaポイント付かなくてもいいからそっち使うのに…

 

それはひとえに、彼ら店員が人間だからである。逆に言えばロボットや電子パネルなどは人間でないので、言葉を発さなかったり録音音声でコミュニケーションすることが許容されるのである。
レストランの店員のバイトをしたことがあるが、見ず知らずの客に笑顔を振りまいたり、いい姿勢で過ごすのがとても苦痛だった。
それではいっそ、表情がわからないように顔を覆ってしまえば済むのではないだろうか。つまりお面である。
お面をつけていれば、笑顔を振りまく義務は無くなる。
しかも、やや強引かもしれないが、ひとたびお面をつけて「おもてなし」を拒む対応をすれば、客はその店がそういう類の店であると理解するだろう。
だからもうその店の店員は録音音声で会話してもなんらとがめられることはない。客はそれを承知で来店しているのだから。


ロボットを導入しないで人間で済ませてしまう理由は人件費のほうが安いからだ。そしてこの現状は世界最低レベルで改善の見込みがない。

しかしそれではどうも「(本当は客なんて来ない方がラクで嬉しいはずなのに)いらっしゃいませ!」とか「(パズドラやってたのに邪魔が入ったわクソッタレとか思ってるのに)ありがとうございました!」とか言わされてる店員が気の毒で仕方がないのだ。
だから彼らの人生が少しでも良くなるように、せめてお面をつけさせてあげられればなと思うようになった。安いし。

 

先日、認知症を患っている人達による「注文を間違えるレストラン」というのが少し話題になった。
俺のように人と話すのが苦手なのもコミュ障などと揶揄されるのであれば、「無言コンビニ」とか「お面スーパー」などが受け入れられてもなんら不思議ではないと思う。


誰かやってくれないかなあ…(他力本願)

感謝されることに興味が無い

実は俺はお金を稼ぐことが苦手だ。

よくわかんないけど、何を考えても収入に直結しなかったり、そもそも俺がやりたくなかったりする。

そもそもお金を稼ぐという行為にはその金額だとか、効率だとか、尺度がある。
そして人は千差万別。得意な人がいれば相対的に苦手な人というのは必ず存在するのだ。
そういう意味で俺はお金を稼ぐことが苦手だという自覚がある。


ではなぜ俺がお金を稼ぐことが苦手なのか。
そもそもお金を稼ぐとはなんなのか。
しばらく考えていたんだが、わりとシンプルな結論にいたった。


まずお金を稼ぐとは、人に感謝されることをしてその対価としてお金を戴くこと、とよく言われている。
たぶんこれで間違いないと思う。
ここで大事なのは、どんなに顧客に貢献していると思っていても、その人がそう思わなければ対価は支払われない。どんなに顧客に実際に貢献できていたとしても、その人がそう思わなければ対価は支払われないということ。必ず感謝させることが必要だ。
つまり俺は人に自分に対して感謝させることが苦手だから、お金を稼ぐことが苦手であると導ける。


ではなぜ、俺は人に自分に対して感謝させることが苦手なのか。その答えは、タイトル通りだ。


俺は人に感謝されることに興味が無い。

 

いやマジで。

ゆえにそれに向かって尽力できないというわけだ。
実は薄々これに気付いてはいたんだが、かといって何か俺の興味関心のあるものの矛先が全く人様への貢献に繋がらないわけでもなくて、長らく悩んでいた。
しかし少し上で書いたように、「貢献」は100%「感謝」に変換されるわけではない

わかりやすい例が子育てだ。親は必ずしも子に感謝されない。大勢の子供にインタビューすれば親の貢献度はゼロであると答える子も中にはいるだろう。それでも、ほとんどの親は衣食住ぐらいは提供しているので実質的には貢献度はゼロではないはずだ。それでも、子はゼロであると答える。そしてさらに、それでもあの子が幸せになってくれればそれでいいのよ、と済ませてしまう親もいる。そして明らかに昭和的な古臭い教育をして子供に煙たがられている親が、あの子のために言ってやってるのにあの子ったら分からずやだわ、とか言うのである。

つまり「貢献に一定の関心を持つこと」と、「感謝されることに無関心であること」は両立しうるものなのである。無論、俺はそのひとりだ。そして自身の貢献に自信を持って常に感謝を求めに行く姿勢は絶対的な正義ではないのである。

感謝されればリピーターになってくれて貢献する機会も増えるのでは、と思われるかもしれない。確かにそれは一考に値する。しかし同時に、主観的に貢献◯感謝×と見られる場合は一定確率でそれが貢献になっていない可能性を考慮するべきだ。つまり本当に貢献×感謝×になってしまっている可能性のこと。それを考慮せずに感謝を求めてしまえば貢献×感謝(=お金)◯となってしまい、これでは詐欺師である。だから俺は感謝を深追いしないスタンスを取っている。俺が〇〇証券だとかNHKだとか営業職だとか接待業だとかに興味を示さないのはこういう理由が背景にある。

 


俺は、誰か、恋人でもいい、友人でもいい、見ず知らずの人でもいい、貢献することにある程度は関心がある。

もし目の前の人がハンカチを落としたら99%拾ってあげるし、美味い店を見つけたら人に言いたくなるし、今から銀行員になろうとしている人がそれについて俺に相談してくれば「やめとけよ、近いうち全部ロボットになるんだぜ。納得できない?じゃあこの本を読んでみてよ。」などと意見するだろう。


人生の中で、何か人の為になることをするかもしれない。

でも俺の関心はそこで終わりなんだ。その先はどうでもいい。俺は自分を信じているので、その人がそれに価値を感じられたかどうかなんて興味が無い。

もし分からないんだったら、「その人のセンスが無いだけでしょ」「10年経ったら気付くかもね」と思ってしまう。

もちろん、上で書いたように貢献したと思っているだけで実際にはできていないパターンもある。だからそうならないように貢献を意図しているものは何事も実際に貢献できている状態に持っていくことに力を注いでいる。

しかし何度も言うようにその結果その人が俺に感謝してくれるかどうかには興味が無い。大体、何か自分のことを人に分かってもらおうだなんてことにも関心がない。貢献する機会を得るために自分の能力を開示することはあるが、この場合もやはり感謝は眼中に無い。そもそも俺はクソッタレなので、俺のような人間を理解することなんて"社会適合者"の皆様にははなから期待していないのだ。だから結果的に何かをしても人に感謝されることが確率的にあまりなくなってしまい、お金を稼ぐ機会に触れにくい。

 


「好きなことをして働く」
これが世間のスローガンになってからもう随分経った。以前はコンサルだか商社だかできっつい仕事をして稼いでその金で贅沢をするのが美徳だった。そして昨今では自分の趣味とも言えるようなことをビジネスに繋げて食っていくのがイケてる社会人の必須条件だ。

その際、美徳の移行の最中では、好きなことをして働いて、いくら稼げるのかについてはあまり論じられなかった。最低限生きていけるお金を稼げれば、嫌な辛いことをして大金稼ぐ奴らより遥かにマシ、みんながそう考えていたからだ。
しかし徐々にそれを実現させる人が増えた。好きなことを仕事にしている人が増えるにつれて徐々に「いくら稼げるのか」という話題が復活してきている。

まあ完全に消滅していたわけではないが、好きなことを仕事にして最低限稼いでいる人達からの、好きなことを仕事にして大金稼いでいる人達に対するジェラシーがより強く感じられるようになってきたと思わないだろうか?

 


何度も言うように「お金を稼ぐ」=「人に感謝されることをする」である。
そして、俺もつい最近まで誤解していたのだが「人に感謝されることをする」=「人に貢献する」だと考えている人がめっちゃ多い。

これも何度も言うが実際は「人に感謝されること」≒「人に貢献する」である。

人に貢献したからって感謝されるとは限らないし、人に貢献していなくても或いは貢献したつもりがなくても確率としては稀だが感謝されることもある。

だから記号は=でも∈でもなく≒だ。

例えばみんな大好きザッカーバーグ。彼はクラスや大学のみんなが登録して使うためのツールを作ったつもりにすぎなかったが、今や全世界の人が使い、企業がプラットフォームとしての価値を感じてその対価として広告枠使用料をfacebookに支払っている(違ったらめんご)。

もちろん今の形態よりもっと前にその可能性を感じてそれ用に必死に進歩をさせたのだろうが、いずれにせよきっかけは、彼の意図しないところでたまたま大きな価値が生まれそれを見出す人がいたという「貢献」と「感謝」の金銭的にポジティブなズレが生じたことであると言える。

俺だって人々がこの記事を読んでたまたま「みんなで人生について語り合う場にしよう!」っつって盛り上がったらみんなが使いやすいように一生懸命プラットフォーム化してその結果ビリオネアになれたら世界に向けて核兵器根絶訴えるしSAY NO TO RACISMのTシャツ着るしアイスバケツチャレンジやるし医療団体に何億円って寄付するのさ。あなたもそうでしょう?

そして以前は「人に貢献する」=「嫌なことをする」であった。(国家の成長と自己実現が同一視されていたので実際の満足度とかそれの現在との比較とかはよく分からないけどね)
しかし昨今では「人に貢献する」∈「好きなことをする」になっている。さらに大金を稼いでいる人の場合は「人に貢献する」=「好きなことをする」だ。
そして「好きなことをできているか」=「人生が充実しているか」である。
そしてもちろん「人生がどれくらい充実しているか」=「その人がどれくらいイケてるか」だ。
結果として、いくら稼いでいるかがその人の人生の充実度、ひいてはその人がどんだけイケてるかにまで直結してしまっている。

だから今現在お金をなかなか稼げていない人たちは、自他ともに評価を下げてしまい、自信を喪失している人が多いのだと思う。なんて生きにくい世の中なのだろう。


しかし今回の記事で俺が証明したように、人に感謝されることと人に貢献する(できている)ことは同義ではない。それらは重なることも多々あるが重ならないことも有り得る。その筆頭は子育て。誰にも否定しようが無い。親は子のために叱るがそのときその子供は腕力さえ敵えばこの親父マジぶん殴ってやるのにとか思ってる。貢献と感謝は本来的に距離のあるものなのだ。
だからだ、「いくら稼げるか」は「どんだけイケてるか」と繋がっていない。みんながあると思っている"="はそこには無い。

つまりお金をたくさん稼いでいる人が偉いとか、立派だとか、お金を稼いでいない人がダメだとか、みっともないだとか、そういう理論は全て"偽"だ。間違っている。

何度も言うように「お金」は「感謝」で動く。お金とはそういう、「どんだけイケてるか」を示すにはあまりに不完全な尺度であり、より適切な尺度たりうるのは「人生の充実度」「好きなことをする」「人に貢献する(と思っている)」といった自己満足的なものしか無い。
ゆえに、あなたは自分がどれだけイケてるのか、あなたの収入に関係なくあなた個人の基準で自由に決められるし、あなたはある人がどれだけ稼いでいてもそれを理由にその人のイケてる度を評価できないし、全く同じく、その人がどれだけ借金を抱えていてもそれを理由にイケてる度を評価することは不可能なのである

 

 

これまた何とも自己正当化的な文章を書いてしまったようだ。

 

てことで俺は人に感謝されることに興味が無い。

そしてそんなわけか俺にはお金が無い(借金は無いよ笑(お金を借り入れて返済するのを繰り返しておくと信用的にはポジティブらしいね!!))。

 

ああ、お腹が空いたなあ…壁|ω・`)チラッ

教育格差とは

巷でよく言われている教育格差とは、お金持ちの家の子供たちだけが塾に通えてしまうことや、地方の子供たちが質の高い教育を受けられていない、といったことが挙げられる。


これらは確かに深刻である。俺も実際に中2冬〜中3受験期まで塾に行かせてもらい、幼小中高と横浜で育った身としては、それらの恩恵は大きかったように思う。
地頭に自信があったとはいえ中2の冬以降偏差値が伸びたのは明らかに塾の影響だし、公立でありながら超豪華(大学並みの実験設備、様々な研究者との交流、海外ホームステイなどの機会が得られる)な高校に通えたのも横浜市という都会に住んでいたおかげである。
笑いのセンスも無いので、俺が例えば千鳥の大悟みたいな環境で育っていたら今頃はもうなんというか色々とヤバかったはずだ。


しかし、これらよりももっと難しい教育格差が存在する。

そして難しいがゆえにまだ多くの人が対処できていなかったり、人によっては認知すらしていない場合もある。


それは2つある。
1つ目は、性格による適合格差。
2つ目は、親の経済力格差による勉学以外の経験の格差だ。


まずは1つ目の性格の話。
徐々に変わりつつあるが、これまでの日本の教育は「暗記型」であった。最近ではアクティブラーニングなども採り入れられているが、根本的な精神は個人的にはまだまだ暗記型であると見受けられる。
そしてこの暗記型、昨今は散々な言われようだが、実は万人にとって毒なわけではない。

例えばストレングスファインダーで「規則性」の才能があると診断されるような人にとっては、この日本式教育というのは最適である可能性が高い。


一方で、日本式教育が全くマッチせず完全な毒となってしまうのが、何を隠そう俺も強みの最上位に持っている「着想」の才能がある人々だ。理由はこちらのブログで詳しく述べられている。

要は「覚えろ、と言われるとその理由を問わずにはいられないし、その理由は生まれてから死ぬまで全て一貫されていなければ気が済まない」のが着想人間なのだ。

「これを覚えなさい」「これをやってみなさい」といった指示を素直に受け入れることができないので、その経緯の説明を省略した産物である暗記とは相性が最悪なのである。
俺はたまたま地頭が良かったので救われたが、これでもし地頭が悪く、都会に住んでても塾に行っても暗記ができなかったらマジでたまったもんじゃない。
冒頭で述べた一般的な教育格差において有利な立場にいながら、性格と教育システムとの相性が悪いせいで低学歴の烙印を押されてしまうのだ。

おそらくそういう境遇の人はたくさんいると思う。


冒頭で述べたように、貧困層や地方に蔓延る課題は深刻である。深刻であり目に見えやすいがゆえに、現在では社会の目がそういった状況に置かれた人たちに対して暖かくなっている。

そして、自分たちは格差に対処している。だからその格差に飲まれていないのに学力が低いのはひとえにそいつの努力不足だ、社会不適合なんだ、そんな声が聞こえるのである。
これはとても危険だ。特にこうして初めて問題に対処したあとというのはなんだかそれで全て解決したかのような感覚を持つので、それで例外が出るとなんでもそれ自身の責任になってしまう。


というわけで少し掘り下げすぎてしまったが、人によって合うカリキュラム合わないカリキュラムがあるのである。

本来ならその人のタイプを見極めてそれに合った教育を提示すべきなのだが、効率性重視なのか単に旧態依然なのか、全ての生徒にほぼ一律で暗記型の教育が為されているために、その異なる性格によって、それに適合できるできないという格差が存在するのである。


2つ目の勉学以外での格差について。
これはもう少しシンプルでありながら、今後より深刻になっていくのではないかと見ている。
説明せずともお分かりいただけるとは思うが、つまるところ、親がお金持ちであれば子供をダンススクールに通わせることも留学に行かせることも起業させることも貧乏である場合に比べて遥かに容易い、という話だ。

これからの時代、IoTや自動化によって個人の経験がより価値を持つと言われている。

そうなると必然的に幼少期から色んな経験を積んできた人が強いし、そうなれるのはほとんどがお金持ちの子供であるため、ここに経済格差が表れてしまう。
日本は豊かなので、別に親が貧乏でその子供も大した経験できずに負け組になったとしても、死ぬことはない。生きていける。生きていけるし貧乏用の娯楽もありったけ揃った。

しかし一方で幼い時から華やかな生活を送り、生涯資産家として暮らす人間が存在してしまう。


この問題をどう見るか、中には貧乏でいいから何もしないでただぐーたらしていたいという人もいる(俺もそっち派)。そしてもちろん、なんとか格差を無くそうとする動きもあるわけだ。そしてもちろんそれを良く思わない人も一定数存在するはずだ。
だから今後の流れとしては、格差自体は存在したまま、段々と色んな行為の経済的敷居が下がってきて貧乏人にも普及していき一方で富裕層はまた新しいことを始めている、というのが続くのかなと思っている。


何を書いているのかよく分からなくなってしまったが、俺が思う教育格差とはこんな感じだ。目に見えにくいがゆえに人々がドライになってしまったり、中々解決が難しい類の格差が存在するとお分かりいただけたと思う。1つ目はたまたま俺に考えがあったのでその解決策まで触れてしまったが、2つ目は特に思いつかないので適当な予想を示すに留めたw
保健の例の分野でアクティブラーニングとかやらせたら盛り上がるんだろうなー(真顔)


おわり

ベーシックインカムの揺るぎないメリット

最終的にボーター(voter)、つまりメリデメの決着をつけることになるのは、仕事をしたい人と仕事したくない人との間の不毛なコミュニケーション(が削減されるというメリット)、であろう。


結局、どの組織にも8:2の法則というのは存在して、一定数は仕事をしないのが自然の摂理なのである。
であるからその仕事をしない層には諦めて最初から銭をくれてやるのが一番時間の節約になる。


現状ではベーシックインカムが無いので本来仕事をしない層までもが採用面接にて「御社を志望している」だの「○○に貢献したい」だのと真っ赤な嘘をついていて、採用担当者はいとも簡単に騙されそいつらに月20万円を支給している。これは誰にとってもとてもばかばかしいことだ。
仕事をしたくもないのにしたいと嘘をつき仕事をしているのかしていないのか分別つかぬような振る舞いで時間を溶かす人がおり、その仕事をしない人間に月20万円の人件費をかけている人もいる。
こうであれば、最初からベーシックインカムを支給することで、少なくとも採用面接の分は時間を削減できることだけは明らかだ。
当然企業も人も税負担は増えるが、結局は相殺される。企業が仕事をしない人間に払っていた分のお金が税金として持っていかれるだけなのだ。


結果としてお金の流れが少し変わっただけで、企業と仕事をしない人間との間で行われるコミュニケーションだけが削減された状態になる。


しかもこれ↑はベーシックインカムによって個人がより嗜好に沿った仕事を獲得するようになるとかそういう未来的なメリットが万が一実現されなかったとしても、確実に得られる、否定しようのないメリットである。よってこれを決め手としてベーシックインカムを導入するのが理性的な意思決定だと思う。